『新・対局日誌』には、大山-青野戦も載っていた。大山が最終盤に「いかにも大山」という手を指した一局である。
第1図は後手の青野が△5四玉と逃げ出したところ。青野の残り時間は1分。
一方の大山は16分残している。▲6四飛と単純に追っても△4五玉で詰まない。他の攻めはないか、逆に受けはないか……。そうして残り2分のところで、大山は▲6九銀と打った。
この銀打ちは、プロが指せない手である。受けることは浮かんでも、すぐ無駄だ、と思ってしまう。そもそも、詰むや詰まざるやの局面で受けに回るのは、詰まない、と認めたことになる。
(中略)
並みの棋士はそう考えるが、大山はちがう。「人間は誤まりを犯す動物である」という確たる信念がある。その哲学が▲6九銀を打たせた。(『新・対局日誌』より)
正確に言うと、▲6九銀は受けになっていない。△9五桂▲8八玉△8九と▲9八玉に△7八歩成▲同銀△8七成桂(第2図)があるからだ。▲同銀は詰んでしまうので▲同玉の一手だが、△7八成銀で受けなしである。
しかし、一分将棋の青野に正解は指せなかった。
△9五桂▲8八玉△8九と▲9八玉のあと、動揺したか△9九と▲8八玉△8九と▲9八玉の手順を繰り返す。連続王手の禁手だが、時間を稼ぐためには仕方がない。
しかし、結局正解手順を見つけ出せぬまま、△8七桂成▲同玉△8八飛と清算してしまい、▲9六玉で負けにしてしまった。
正直に言うと、白砂にはこの▲6九銀の「凄さ」がよく判らない。ドラマとしてはいい出来だとは思う。人間大山康晴の強さもよく判る。しかし、どうも凄さが伝わってこない。
「人間は誤まりを犯す動物である」という哲学については白砂も同意見だし、実際白砂もそう思って将棋を指している(笑)。しかし、それでも「凄さ」は判らない。
この手の凄さが判るようなら、もう1ランク強くなったということなんだろうか……?