コピー将棋は害悪か

最近、というよりここ十年来の事だろうか、とみにプロ将棋での「コピー将棋の弊害」が叫ばれている。
その論調を一言でくくってしまうと、「同じ将棋ばかりで面白味がない」ということなのだが、アマチュアだけでなく、『新対局日誌』など、プロでも同じような論調で「コピー将棋」を貶す(と敢えてここまで言ってしまう)ことも多い。
まぁこれに対する賛否両論の内容も大体決まっていて(笑)、賛成派は「勝つためには仕方がない」「定跡を完成させるのもプロの義務」といったような意見、反対派は「魅せる将棋を指すことも必要」「個性がなくてつまらない」といったような意見のようだ(他にもあったら教えて下さい)。

白砂は、コピー将棋大賛成派(爆)である。
なんでって、白砂自身がコピー将棋だから

「コピー将棋」とは、意味としては「みんなが同じ将棋を指す」ことを指すが、これを指す人個人として捉えてみたらどうだろう。大体、みんなおんなじ戦法を指してませんか?
だったら、みんながみんな「自分のコピー将棋(?)」なわけで、別にそれでいいんじゃないかと(笑)。

それに、白砂はコピー将棋を見ていても十分に楽しめる。
「そこから先」の楽しみがあるし、「そこまで」の積み上げの歴史についても素直に感心できるから。
例えば藤井システム。例えば△8五飛戦法。矢倉▲3七銀型でも、角換わり腰掛け銀でもいい。現在プロの対局に出てくる局面には、その背後に膨大な研究と幾多の実戦がある。それらの研究や実戦のことを思えば、指定局面を見ても「同じでつまんない」と感じることはないんじゃないかと、白砂は思うのだ。
また、今までの定跡と離れた瞬間、そこに、大袈裟に言えば新たな歴史が生じる。それが成功するか失敗したかはどうでもいい。とにかく、そこで「その道を試した」ということだけで、白砂は十分に棋譜を観賞できる。

暴言であることを承知で言うなら、コピー将棋を批難する人達は、コピー将棋が理解できないから、楽しめないから批判をするのだ。白砂には楽しめる。十分に楽しめる。他にも同じ考えの人達はいるだろう。そんな私達にとって、コピー将棋批判はそれを理解できない人の遠吠えでしかない。

コピー将棋を見て、その隠れた変化や歴史を楽しめるような、そこまでの棋力がないと、コピー将棋は楽しめないと思う。
将棋ファンは、そんな有段者だけで構成されているわけではない。だからこそコピー将棋「だけ」ではまずいという批判なら判る。しかし、単純に「コピー将棋=悪」というような図式でコピー将棋を批判するのであれば、それは的を大きく外した意見だと白砂は思う。